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青森市在住 20代男性 震災体験談(震災時) アオモリシザイジュウ 20ダイダンセイ シンサイタイケンダン(シンサイジ)

解説

震災の時は会社にいました。 会社の事務所にいたんですけど、いつもの地震と違って大きい揺れだったので、全員外に出て、しばらく地震がおさまるまではみんな外に出てましたね。 結構時間も長かったと思います。外回りで、(事務所に)いない人もいましたけど、その当時中にいた全員で出ました。 机の下に隠れるってよりは、まず(外に)出ましたね。中にいるとやばいかなと思うくらいだったんで、まずみんな外に出るぞっていうのでみんな外に出ましたね。 初めはいつもの地震かなくらいだったんですけど、だんだん揺れが大きくなってきたので、これはさすがにやばいと思いまして、しばらくは中にいましたけども、こりゃやばいっていうのでみんなで外に出ました。揺れてる最中はたぶんここ最近では無いくらいの体感の地震だったので、まず思ったのは、子供が保育園に行ってるんですけど、保育園とか大丈夫かなとかそういう心配してましたね。 家族にケガはなくて大丈夫でした。自分の嫁さんも同じ会社なので、夫婦間はすぐに連絡を取れました。 それですぐに子供を迎えに保育園に行って、そこからは私はまたしばらく会社に残っていました。特に揺れで壊れたとか崩れたとかはないですけど、信号機は全部止まってしまってたので、そこからはすごい渋滞なり交通整理なりで、車の移動が難しくなってました。 揺れがおさまったあとに仕事に出ましたね。途中で仕事が終わるとはその時はそこまで考えてなかったと思います。大きい地震だったなあくらいでした。ただ行く途中で信号機がもう止まってたので、ここでちょっとおかしいなあと思って、そこで1件仕事で行って、またすぐ会社に戻ったら、もうその時点でみんな今日帰れってことになりました。 とりあえずその日は停電で、家の中も寒い状態だったので、車の中にいて、車でテレビは見てましたね。途中でご近所のかたからロウソク頂いたので、家の中で寝ましたけど。 何時間かはずっと車にいましたね。食事は、食べ物がまだ冷蔵庫にあったので、それを食べて寝ました。 水道は大丈夫でしたね。うちはほとんどオール電化に近いアパートだったので、お風呂はガスですけど、ただ電気が使えない時点でもうガスは使えても意味がない状態でした。 そういう部分では全然使えない状況ではありました。オール電化だと停電してしまえば全然使えないので大変ですね。 青森市なので、湾で津波が起こるっていうことは相当な時くらいしかないっていう意識があったので、正直津波に関してはあんまり心配はしてなかったですね。今まではなかったですけど、ロウソクとかラジオとか非常食とか、そういうのは持つようになりましたね。 仕事のほうは、上司からの指示で、地震直後は帰れってことで。帰ってくるまでは、ある程度の時間は待ってましたね。ただもう帰れる人は先に返して、 上司とかは最後までみんな帰ってくるまで残って、みんなが帰ってきて無事を確認してから帰らせてそのまま帰ったって感じですね。 私達は営業なので、仕事で特別何かしたっていうのはないかな。地震があってから、しばらくは家族でないとほとんど接することもない状況だったので、 ほとんど家にいるような状態でいたので。そういう意味では、家族を元気づけるようなことが、自分にはできていたかどうかっていうのはありますけど。 心配させないようにとかですね。元気づけられた部分もありますし、やっぱりこっちが大丈夫だよ、みたいなことで、盛り上げなきゃならないっていうようなやりとりも、もうちょっとできればよかったのかなって。 震災対策で購入したのは、非常灯とか。飲水とかは、結構大量に家に置いてますけど。 反射ストーブも1台準備しました。一番心配したのは、やっぱり子供ですね。 結局わたしも嫁さんもすぐ近くにはいたので、お互いの安全はわかったんだけど、子供は保育園で、どういう状況になってるのか全然わからないので、そういう意味ではすごく心配にはなりましたね。 連絡もちょっととれない状態だったので、電話とかも携帯も全然つながらなかったし、直接行くしか確認する方法もなかったっていうのもあったので。

メタデータ

データの提供元

青森震災アーカイブ(承継)

東日本大震災の被災地である青森県八戸市、三沢市、おいらせ町、階上町の共同事業として構築されたアーカイブ。行政文書のほか、市民から集めた写真、動画や体験談も収録。2024年6月26日ひなぎくでデータを承継。2024年3月31日サイト閉鎖。

2024/06/30